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《カヤ原管理の現状(山焼き等05.03.22
 2001年、25年振りに山焼きが再開されました。山焼き以後のカヤ原の管理状況を伝えたいと思います。
●山焼き(2001年3月20日)

・頂上のカヤ原で山焼きが行われました。真っ赤な炎が真っ青な大空を焦がし、白い山が黒い山へと変身しました。河内長野市の八景に選ばれたカヤ原の山焼きは春の風物詩になるでしょう。

・午前8時に滝畑の人たち50人以上がカヤ原(ススキ草原)東端に集合し、南東側から手始めに、北東側から本格的に焼き始め、西へと進み、頂上広場の北西側が終わったところで昼休み、午後は南西側、索道東側を焼き、午後4時となり、西側を残し、山焼きは終わりました。概ねカヤ原8haの3/4程度が黒く焼けました。

・昔は2年に1度、村人350人くらいが出て、カヤ原の周囲に立ち、頂上の猟銃の銃声を合図に、風向きを見ながら火入れをし、一斉に山焼きを行っていたそうです。昭和51年が最後で、近年、雑木などが進入し荒れ始めていたものを復活すべく、5年目にして漸く、天候等の条件が整い、25年振りに実行されました。山焼きの目的は、淀川の葦原でも同じですが、古い株を焼いて新しく生える株が真っ直ぐに育つよう、刈り取り時に古い株が混入しないよう、進入している雑木をなくすなど、カヤの密度の高い良質のカヤ原にするためです。

数カ所に分けて山焼きするため分割する

産経新聞もヘリコプターから空中撮影する


・周辺山林への山火事の危険を考え、尾根から裾に防火帯をつくって数カ所に分割し山焼きが行われました。順序は、当日の北風を考え、風下に西側から東側へと進みました。防火帯は草刈り機で5〜10m幅で刈り取り、人海戦術で、刈ったカヤ等を鎌や先が三又に切った雑木の枝で両側に押しやり地肌が見えるようにして作った。火入れは風下の北西から火を入れ、徐々に周辺も火を付け、最後に風下のカヤ原の裾に火を入れ、火は中央部へ向かうようにコントロールされた。周辺では火が走ったり、飛び火をしないように、ジェットシューター(20lの水の袋)を背中に担いだ人たちが並び、水鉄砲のように水を飛ばして火を消した。ヒノキの生枝で叩くが効果はジェットシューターの比ではなかった。黒く焼け残ったハギなどの雑木は今後刈るという。

・火の回りは当初は遅いが、周囲に火がつくと一気に進み、背の高いカヤが多いところでは20mほどの火柱がたっていた。頂上北側付近が圧巻であった。産経新聞のヘリコプターが何度も飛来し、ホバリングしながら撮影した模様である。風切り音等がうるさく、村人の意思の伝達の邪魔となっていた面や無用の風を起こしていた面もあった。山焼きが成功した原因は風が弱かったこと、風向きが変わらなかったことが挙げられる。当初はバラバラのように思えたまとまりが慣れるにつれ、次第にうまく機能して行ったように感じた。

・我々(西原、新谷、上田)はカヤ等を両側に寄せる作業などの協力をし、午後はカヤ原の裾に取り付けられようとしている防火帯かつ管理用通路によって、損なわれると思われる、シュンランとイチヤクソウを区長の許可を得て隣接の山林に移植した。
(文・画像;上田泰二郎)

延焼しないよう背負ったJet Shooterで火を消す

火はコントロールされるように周りから中央へと進む

●部分伐採(2001年11月4日・11日)

・11月4日滝畑の人達が30〜40人が参加して、3月に火入れを行わなかった東端や西端部分の草木の伐採が行われました。東端の平坦部に作業車両を置き、作業は東と西に分かれ、刈り払い機を使って行われました。

・11月11日ダイトレ沿いが草刈りされました。
・火入れを行わなかった東端や西端部分は、火入れを行ったところに比べ、灌木が多く茂っており、火入れの時に立木状態では火のまわり具合がよくなく、灌木を絶やしにくい。そのため、この時期にエリアを限定して伐採が行われました。
(文・画像;上田泰二郎)

東端平坦部に作業車両(中央がダイトレ)

急斜面上で刈り払い機を使い伐採する(東端部で)

●山焼き(2002年3月24日)

・去年に引き続き、3月24日に頂上のカヤ原で山焼きが滝畑地区住民により行われました。その直前の21日にカヤの刈り取りが行われる予定でしたが、天候のため実施されませんでした。
・カヤ原を分割し、東側、ついで西側、最後に中央という順序で山焼きが行われた模様です。中央の部分は夜の闇を焦がし、7時に行われました。夜の分は今回初めてで、マスコミ用と聞いています。
・今年は去年焼き残した索道デッキ周辺を含め、全体に火入れが行われた模様です。スミレが開花している場所と芽も出ていない違いから、菫の開花が多く見られる東端部は一斉火入れは行われなかったようだ。他では春が例年より2週間ほど早く訪れたところに火入れが行われたため、スミレの生育に影響を与えたものと思われる。
(文・画像;上田泰二郎)

昼過ぎに、カヤ原西側の索道デッキ付近で、山焼きの炎と煙が立ち上る

夕方、カヤ原の一部を残し、東側は既に真っ黒になっていた

●茅刈り(2003年1月19日)

・滝畑の光滝寺の本堂茅葺き屋根を葺き替えるため、滝畑地区住民数十人により茅刈りが行われました。
・8時頃よりカヤ原東側一部で行われましたが、9時20分頃より雨が降り始め、中止となりました。トラックに数台分を刈り取った模様でした。
・ボランティアとして、河内長野市立西中学校の生徒80名と先生、いわわきネイチャークラブ数名、里山倶楽部数名、その他が参加しました。
カヤ原東端に集まった(但し生徒は半分)時点で解散となりました。
  注)雨に濡れた茅は放っておくとカビが生え使えない、乾かす場所がないなどの理由から、刈らない。
(文;上田泰二郎、画像;西原辰夫)

村人や中学生たちが集合したが、雨のために10時頃に中止

●山焼きの下作業(2003年3月21日)

・1月中止となった茅刈りの実施と聞いいましたが、23日カヤ原を見ると、山焼きのための準備作業が行われたようでした。
・周辺山林への延焼防止のため、刈り払い機により、ダイトレ南側、幅が狭い東端部、索道デッキの周辺などのススキが刈られていました。
(文・画像;上田泰二郎)

北側植林と幅の狭いダイトレ北側が刈り払われている。

●山焼き(2003年3月30日)

・滝畑地区により、再開後3回目の山焼きが行われました。
・0.5人/戸の割で滝畑住人が約50名集まり、25台くらいの車両が東端に駐車してありました。
・午前9時から火入れが行われました。午前中はダイトレ北側、西端部、東端部が焼かれ、午後にはダイトレ南側中央部が焼かれました。21日の準備作業のため、山焼きは早く終わり、午後3時頃まで焼け残った立木を刈り払ったようです。
・延焼防止のためにジェットシューター(01年山焼き参照)が行われ、消火用の水をキャタビラ車が外周防火帯を走行していました。
(文;上田泰二郎)

東端部に軽トラック等で集合

炎が数m立ち上がる

火はかなり速い速度で上から下へ降りてゆく

午前中はダイトレ北側を中心に焼かれる

●茅刈り(2004年2月28日)

・2003年12月下旬〜2004年3月下旬、河内長野市教育委員会文化財保護課によって、事業が行われました。
・2月28日で全域の2/3、2000束が刈り取られました。3月末ではほぼ全域が刈り取られ、全部で3,000束ぐらいと推測されます。
・2/3が滝畑の光滝寺本堂の茅葺き屋根の葺き替え用に、1/3が市の他の文化財等に使われるそうです。
(文・画像;上田泰二郎)

10人弱で刈り取った茅は束にして、キャタビラ車に積み込まれる
キャタビラ車は急斜面でも走れる
東端の広場で軽トラックに積まれ、林道を通って運搬される
12月下旬から始まった作業で8〜9割程度が刈り取られている
●山焼き(2004年4月10日)

・今年の山焼きは、カヤが刈られた後で実施されたので、迫力に欠けたものでした。
・私が8時半頃に山頂に着いたときには、すでに南斜面の半分以上は終わっていました。30分ほど山頂に居て山焼きの手伝いの人々の様子を見ていましたが、何か緊張感の欠けたものでした。それは、風がなく穏やかな天気でしかもカヤが刈られており山焼きによる二次災害が殆ど考えられない状況であったからだろうと思われました。
・手伝いの人々も、あまりにも順調に早く山焼きが終わっていくので気が抜けている節があったのではないかと思われます。
・それから北側斜面は午後からということで私は下山しましたが、多分推測では予定より早く終わったのではないかと思っています。
(文・画像;浦 利雄)
 
●茅刈り(2005年3月20日)

・2005年年3月20日、滝畑住民によって、茅の刈り取り作業事と山焼きの準備作業が行われました。
・3月27日予定の山焼きのため、ダイトレ沿い等の茅(ススキ)や雑木が刈り払い機で刈られていました。
・今シーズンは積雪が多かったため、寝ている茅が多く、茅葺き屋根に不適当なものが多く、刈り取り効率は悪いように思えた。
(文・画像;上田泰二郎)

鎌で刈り取られた茅は、村人が考案した道具でまとめ、縄で縛る
1束の茅をキャタビラ車まで運ぶ
キャタビラ車が防火帯を走り、茅を軽トラックまで運搬
軽トラックを中心に15台ほど、茅を積む
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